最近、コミュニティ系VS非コミュニティ系というのがあちこちで騒がれているらしいのだけど、最近の情勢にうとい俺はふーんくらいの感覚だ。

 そもそもコミュニティ系ってなーに? って感じだ。コミュニティ系ってのが、上下関係がはっきりしているとか、非コミュニティ系が、他人は他人、オレはオレ、だからあんまりベタベタしなーい、とかそういうことだろうか?

 
 オレ自身は、究極的には「話せばわかる」とは絶対に思えない人間のように思う。わからないやつはわからないまま。わかるやつは、わかるんだ、と今でも片隅に残っている気がする。

 もちろん、それは人間関係にもまれてない、経験が浅い、というころの自分だし、今でもそう人間関係の荒波にもまれて、強くなったなぁみたいな感じじゃない。今にして思えば、単純に「説明して、オレのこの思いがどれほど伝わるんだろう。伝わったのかと思えば、やっぱり全然理解してくれてない。やっぱり、最終的にはわからないんだ」と自分の歩み寄れる部分を意図的に排除していたのだと思わなくもない。

 人間が生まれてから付き合っていける、自分とつながって生きていく人間の数は、実際、それほど多くはない。自分と相手の時間を共有して、その中で喜怒哀楽、ひきこもごもの事象を引き起こすけども、実際、「今の」自分のまわりにいる人間がどれほどいるだろう。

10人が20人、30人や100人になった。友達、友人、知り合い、たくさん。

自分の心を分け与えていける人間の数は、自分が持っている時間の枠内で決まるような気がする。決して長い付き合いだから、心が許せるわけではないのだが、心許していくなら長い時間を付き合いたい。

 酒飲んでわかりあえた、一生懸命話してわかりあえた、そういうのは幻想だ。すべからく勘違いだ。相手の気持ちは、相手にしかわからない。いや、相手にだってはっきり自分の気持ちをつかんで自分を表現するのは至難のワザだろう。

 だから、分かり合おうとするときには、話だけで捕まえてもだめだ。時間を共有すべきだ。共有して、話し合って、共有する。いつか完全に分かり合えるだろうと、互いに思い続け、その思いを続けることそのものが両者間の間で暗黙的な合意されているに違いない、それがコミュニティに属したいと思う時のオレの感覚だろう。

 いいかい。人間がつきあえる数なんて、一生のうちでもたかが知れている。だったら少しでも多くの人と付き合うのがベストじゃないのは、わからないかい?
 じゃあ、リアルに付き合いたい人をさがそうよ。人間はリアルに付き合えば、身体を重ねたりできるよ。触れ合えるし、それをうれしいと思えたりするよ。

 そいつが自分の求める相手なのかどうか、わからないならわからないままにしておこう。そしてわからないまま、相手を選ぼう。選んだら、少し勘違いできるよ。相手も自分を選んでくれたって。

 
うん、すごく適当な文書だ。